元親池 所在地高梁市奥万田(おくまんだ)町 元親池と吉備国際大学戦国時代末期の備中松山城主・三村元親はもと毛利の属将であったが、のち織田方に加勢したため、備中松山城を毛利8万の大軍に攻められ、天正(てんしよう)3年(1575)5月23日、遂に落城した。元親は夜陰に乗じて阿部へ逃げのびたが、この池のほとりまで帰り自首した。 毛利方に切腹を許された元親は、当時この近くにあった松連寺で自刃(じじん)した。この辞iしずく{世r人といふ名をかるほどや末のつゆ消えてぞかへるもとの雫に」前匠作一瞬源樹{三(ミ)肚さらに「雛炉炭清涼殿剣樹刀山遊戯城」と刻んだ記念碑が池のほとりに建てられている。時に若冠23歳であったという。なお近くには、平成2年4月開学した高梁市の新しい顔、吉備国際大学がそびえ立っている 索引【も】分類[史跡・古墳]登録日-2003/09/1317:19