近似 【ちかのり】 {{category 地名の由来}} 今回は、難しい地名の一つとして「近 ちか 似の り 」を 取り上げてみたいと思います。 「近似」という地域の歴史は大変古く、古代 には備中七二郷のうち、下道 しもつみち 郡一五郷の中の一 つ「知賀乃利」とか「知加乃里」などと和訓 くん で 書かれた「近似郷」の地名が初めて見えてきま す(「和名類聚抄 わみょうるいじゅうしょう 」=九三一.九三八年)。この 頃の「近似郷」は、今の落合、近似、松原、高 倉付近に当たると考えられています。その後、 室町時代にも河上郡六郷の一つとして「近似郷」 の名が出てきます。近世になると「近似村」と なり毛利の支配から慶長五年(一六〇〇)の幕府 領、そして、元和三年(一六一七)松山藩領、元 禄六年(一六九三)再び幕府領、同八年(一六九 五)松山藩領と支配が移り変わっています。高梁 川の川沿いには、藩政改革を行った山田方谷の 建議により、鍛冶屋二十数戸を新設して、農具、 稲扱 こ ぎ、釘 くぎ などを製造させて利益を上げた(嘉永 二年=一八四九)といわれる鍛冶屋町がありま す。また、神社仏閣も古く、松山藩主の鎮守と して保護され、山城国から勧請したと伝えられ る稲荷神社、石清水八幡の分霊を勧請したと伝 えられ「近似」ほか九か村と新町、横町、南町 などの大氏神として崇拝された大本八幡宮があ って、どちらも花山上皇巡幸のときの寛弘元年(一〇〇四)の創建と伝えられています。 寺院に も松山城主祈願所となった蓮華寺、玄賓僧都の 木像が伝わる松林寺(延徳二年=一四九〇)があ り付近は玄賓谷と呼ばれ中世の土仏が発見され る場所で、歴史の古さを思わせる「近似」であ ります。「近似」の地名は平安時代の古くから見 られたことは確かなのですが、中世には「近則 ちかのりの 庄し ょ う 」とも書かれています。「近似(則)」は近 ・ い・ と いう意味で「似 のり ( 則) 」は傾 ・ 斜・ 地・ を表す( 「字 通」)ことから考えると「里に近い斜面のところ」 という意味なのかも知れません。現代の字面で 古代を考えるのも危険なのですが「日本地名語 源事典」(新人物往来社)には、『「ツカノビ」(塚 伸)の転化をいうか』と書いていますが、とにか く由来の分からない難読地名の一つなのです。 (広報高梁)