下町 【しもまち】 {{category 地名の由来}} 「下町 」は、江戸時代の初期、城下町 じょうかまち づくり を始めた小堀氏時代の本町・新町に続いて、池 田長幸が入国して翌年、元和四年(一六一八)に 紺屋川の南(「城外」)に鍜冶町とともに取り立 てた商人町で、松山城下の五町の町の一つとし て地子 じ し 公役免除の町でした。そして、本町通り から南町通りへと続く備前往来沿いの町として、 本町に続く大切な町筋で「下町」の北の端の紺 屋川の橋詰には、高札 こうさつ 場を設けていたり、並行 して走る西側の中間町と東側の鍜冶町通りを結 ぶ二本の横丁(小路)は、鍵型にして見通しを悪 くしていたり、町づくりの工夫が見られるので す。 「下町」は、元禄頃(一六八八.一七〇四)に は三町一八間の長さで家数が一二四だった(「水 谷史」=御家内之記)。 その後の石川時代(一七 一一.一七四四)には家数八九と書かれています (「松山城下絵図」写)。板倉時代の延享元年(一 七四四)になると町の長さ三町三二間、竈数 かまど 二六 一、人数七七二とあり、幕末の嘉永.安政初年 頃(一八四八.一八五四)には「屈指の商家」と して川手の酒屋で葛籠屋 つづらや 、煙草屋 たばこや の工屋など八 軒、山手(東側)の油屋・葛籠屋 つづらや 定七など七軒が 店を構え、町年寄は山崎屋市十郎だった(「昔夢 一班」)とあり、郷宿 ごうしゅく も八軒ありました(「高梁 市史」)。松山名物の白髪そうめんも「下町」が中心で、御用そうめんや献上そうめんも有名で した(「松山御城主歴代記」=市図書館)。この ように、町屋の人口も増えて、本町に次ぐ規模 の商家が並び町が発展していたことが分かるの です。 「下町」は、天保一〇年(一八三九)の火災や 明治二六年、昭和九年の紺屋川の氾濫による床 上浸水などで被害を受けることも多かったが、 復興も速く明治一二年には、第八十六国立銀行 (現中国銀行)が設立されたり、昭和六年には高 梁信用組合(現備北信用金庫)が創業したり、明 治以後は本町以上に賑わった町だったのです。 「下町」という地名の「下 しも 」は、各地に見ら れますが、「しもの方の」とか「川しも」とか 「高い所に比べて低い所」「中心から離れた所」 などの意味で位置や方向を表す地名なのです。 即ち「下町」の地名は、御根小屋から見て本町 に対する「しもの町」という意味なのです。 (広報高梁)