シリーズ方谷先生を訪ねて 元締時代―財政改革、豊かにする― 方谷は前号一.三の政策で、きびしい倹約令によって支出をおさえ、借財返済の見通しをつけ、藩札を整理して信用を回復し、健全財政への道筋をつけました。嘉永五(一八五二)年に郡奉行も兼ねて経済のみならず地方政治も掌握し、民政を安定し、富国強兵の方策を実施していきます。 四、産業振興嘉永五年撫育方を置き、後述する収ぶいくかた納米以外の一切の産物を扱い、その利益を産業振興などの資金に利用しました。備北の鉄山を開掘、城下の対岸近似村に山陰などより鍛冶職人を数十戸招き、良質の鉄製品を作らせました。備中鍬などの農具や釘くわくぎは評判が良く、特に釘については会津藩士秋月氏が「当時釘を作り江戸へ漕売してそうばい一年三千両位に至る」と記されていますから、一両を十万円とみると三億円位もの利益をもたらしたと考えられます。他に銅の利益もありました。 山野に杉、竹、はぜ、漆、茶(津川のは高品質)を植えました。葉たばこを増殖し、城下の内職で刻み、きざ「松山刻」として江戸から九きざみ州までも売り出し、織物を作り、また家中屋敷で柚子、柿を植え、柚餅子が作られゆべしました。釘、反物その他城下で製作した品は江戸に回漕して販売し、江戸藩邸の費用にあてました。 五、民政刷新藩主勝静かつきよと方谷が最も重視したのが人々の生活の安定です。人の気持や風俗が向上すれば他領から人も金も集まり、藩は栄えると考えて特に力を入れています。ぜいたくを戒め、賄賂は厳禁、まず役人がわいろ行いを正して人々を指導するよう求めています。当時備中は支配違いの領土が入り込み、他所から来て悪事を働くものが多かった。方谷は強力な盗賊改方をおいて辺境まで厳しく取り締まり、厳罰に処したので、戸を開けて寝ても安心といわれるほど治安が良くなり、賭博などの賭けごととばくかもなくなりました。安政二(一八五五)年になると改革の実があがり、借り上げで厳しい生活を余儀よぎなくされていた藩士に対して、借り上げた一割を返しました。また農民への税を安くし、困っている村や庄屋に資金を援助して立ち直らせ、町民には商売の資金を援助しました。開墾を奨励してその資金を貸し、他所よそから来た人も入れ、新開地には税を免除、農民も農地も増加しました。また飢饉ききんに備えて四十か所あまりの郷倉を設けました。安政四年、方谷は元締を退きましたが、なお御勝手掛として財政や大事の決定には関与しました。この時までに借財はほぼ返して、新紙幣永銭による収入も含めえいせんて、撫育方にかなりのお金を貯えることができました。 六、文武奨励方谷は藩士に有終館や江戸や野山(東方の守りとして在宅武士が居住)の学問所で文武両道の修業をさせました。卒(下級武士)や町民、農民そつにも武士に準じた学問を奨励し、城下に鍛冶町教諭所、玉島に玉島教諭所、総社に矢田部教諭所を設けました。多くの藩民は学問を学び、人としての大切な心を育てていきました。方谷は以前から藩の防衛に心をくだいており、世界情勢にも通じ、洋式の軍備の必要を悟り、弘化四(一八四七)年津山の天野直人に大砲の製法や銃陣を学びました。当時の武士は洋式戦術である号令による一斉行動を嫌ったので、郡奉行になると、農民を組織して鉄砲を貸し与え、農閑期に桔梗原で訓練し、千二百名の郷土防衛隊を創りあげました。第一次長州征討の時、藩主以下武士はほとんど出陣したので、方谷はこの農兵隊で藩の守りを固めています。(文・児玉享さん) <情報もと 広報たかはし>