トップ 一覧 検索 ヘルプ RSS ログイン

福地の変更点

  • 追加された行はこのように表示されます。
  • 削除された行はこのように表示されます。
福地
【しろち】
{{category 地名の由来}}



「福地しろち」は、成羽川の支流、福地川に沿って枝状に村落が広がる地域で、落合町の大字地名の一つであります。東は落合町の原田・阿部、西は成羽町羽山・成羽、南は成羽町下原、北は松原町に接しています。現在、「ホタルの里」として有名になっていますが、歴史的にも古い地域で、白雉はく ち元年(六五〇)創立といわれ、備中神楽を完成させた西林国橋の先祖に当る西林宮内省輔盛が氏神として祭った賀茂神社(水分みくまり神社) は、古式ゆかしい宮座の様式や雨乞あま ごいの信仰の残る神社であります。また、谷山たにやまにある八幡神社は、産土神うぶすながみとして寛永三年(一六二六)に成羽の大元八幡宮を勧請したといわれるお宮です。白水しらみずには、空海の開基といわれる真言宗の薬王山大福寺が、谷山には、大きな観音石仏があり承応三年(一六五四)開基と伝わる曹洞宗普門山大智院などの寺院があります。江戸時代の成羽往来も境谷(本紙三十二回)から鍋坂なべかさ、柳瀬(本紙二十四回)へと通り成羽の町へ渡っていた川湊かわ とも残っています。現在の県道落合―高倉線は、瀬戸内の魚を運ぶ「トト路みち」の一つでありました。福地川上流の難な波ば江えは、成羽藩の儒学者で勧学所で講義した信原藤陰とういんの出身地であります。 


また、難波江は、中生代三畳紀層の貝化石が有名であります。「福地」は、近世になると河上郡(川上郡)福地村として、毛利の支配から慶長五年(一六〇〇)の幕府領、そして、元和三年(一六一七)成羽藩領、寛永十九年(一六四二)幕府領、万治元年(一六五八)成羽藩山崎領となって明治を迎えています。幕末頃の福地村は、石高一一五六石余り、家数一七六軒、人数八八五人と記され (「備中誌」)、明治四年頃の「旧高旧領取調帳」では、一一六五石余りとなっています。「福地」という地名は、古く「和名抄」に出てくる成羽郷の一部として『寛正六年(一四六五)九月十四日備中守護細川勝久は、「成葉庄なりはのしょう」( 成羽庄) 代官職に被官ひ かんであった福地ふく ち彦次郎を推挙している』(講座「日本荘園史」=吉川弘文館) ことが記録に残っていて「福地」という地名にもこの代官との関係が推察できるのであります。戦国時代頃には「白地しろ ち」と表記されていたらしく「備中兵乱記」の「芸陣薙麦事附松山勢心替之事」の中に『敵陣は白・地・という所へ陣を移し、阿部、西野 (現松原町西野々)の麦を残らず薙なで切りにした』とある。その後、江戸時代の「寛永備中国絵図」(一六三八.一六三九頃)にも「白地村」として、石高四九六石、山崎家治先治いえはるせんちなどと描かれ、その後の「正保郷帳」 (一六四五頃)には「しろち」と振り仮名が書かれています。地名の由来について『昔この地方に、白い土が多く出たので「白地」としたが、その後、洪水などで荒地となるので「福」の佳か名を使って「福地」と書くようになったという言い伝えがあるんです』と、上田福治さん(八十歳)は話してくれました。いずれにせよ「福地」と書く地名は多いが「シロチ」と読む地名は珍しく、ほとんどが「フクチ」または「フクジ」と読む地名で、「川岸が肥えた土地」(「日本の地名」=角川新書)とか「深い土地」(「日本地名語源事典」=新人物往来社)を意味するものなのです。難読地名の代表的なものとして取り上げてみました。 (広報高梁)