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備中松山城
【びっちゅうまつやまじょう】
http://ftown.boo.jp/takahashi/map/matuyama/osiro041.jpg

日本で一番高いお城だそうで〜 (アニ) 

臥牛山山頂に建っている山城 (やま) 
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備中松山城の歴史は古く、鎌倉時代(1240年)に有漢郷の地頭に任ぜられた秋葉三郎重信により大松山に砦が築かれたことに始まります。なかでも天正二年(1574年)に起こった「備中兵乱」時は「砦ニ十一丸」と呼ばれた出丸が築かれて いたことが記録として残っています。三村氏が滅んだ後も、毛利氏の東方進出の 拠点として、また、毛利氏が防長二国に退いてからも、備中国奉行として赴任していた小堀正次・正一(遠州)父子により修改築がなされるなど備中の要衝としての役割を担っていたようです。 (R)
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備中松山城は、現存する山城としては日本一高い所にある城(天守・標高430m)で、天守と二重櫓は17世紀後半に建築された当時のままの姿で残っています。日本三大山城 の一つと言われており、国の重要文化財にも指定されています。また平成9年4月には、本丸に五の平櫓・六の平櫓などが復元され、江戸時代の雄姿をよみがえらせています。 
(R) 
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備中松山城登山道の途中に、大石内蔵助の腰掛け石があります。高梁の基礎をつくった水谷三代の三代目、勝美が元禄六(1693)年、31歳の若さで急死、継子も13歳で亡くなったため、幕府は水谷家を断絶、所領没収となりました。徳川幕府の時代、お家断絶となれば城も領地も明け壊さなければならず、これを不満とする旧藩士たちが討ち死に覚悟でろう城という事態も考えられ、幕 府の命で城を受け取る役割は大変なことでした。

そして、松山城受け取りの役は、赤穂藩主浅野長矩に命じられたのです。7年後、長矩は江戸城内で吉良上野介に斬りつけ、お家断絶、所領没収という同じ悲運をたどるわけですが、吉良邸に討ち入り、亡君の仇を討った家老、大石内蔵助良雄が長矩に従って松山城の収城をとり 仕切ったというのは、皮肉な歴史のめぐり合わせといえます。 (R) 
初めて城が築かれたのは13世紀の中頃。戦乱の世には、どれだけこの地形が役に立ったことだろう。いくたびも主を替えながら、城は800年近くもの長い時間、町を見下ろしてきたのである。
備中高梁駅まで戻り、町歩きは栄町大通りから始めるといい。駅から歩いて2〜3分の距離で、アーケードの商店街。特に活気のあったのは魚屋だった。地げた、地めばるなどと書いた札が魚の上に放り投げられている。めばるはわかるが、「地げた」とは何か。札の下の魚を見ると、舌平目のようだ。 (R) 

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高梁市のシンボルである国指定重要文化財の備中松山城。標高およそ四百三十メートルの臥牛山の小松山の峰に築かれたこの城は、日本で最も高いところに現存する山城として有名です。高梁は備中国のほぼ中央、高梁川中流に位置し、山陽と山陰の中間にある水陸交通の要衝です。そのため、高梁を支配することは備中国を治めるのに重要な意味を持ち、早くから臥牛山に城が築かれました。延応二年(一二四〇)、有漢郷の地頭(現上房郡有漢町)秋庭三郎重信が初めてこの地に城を築いたと言われています。

当時の山城は簡単な砦であったとされています。この後、次々と城主が変わりました。永禄三年(一五六〇)には、三村家親が城主となりました。この頃から三村氏の勢力が備中全域におよび、備中松山城が備中国の中心としての地位を占めるようになったのです。備中兵乱によって三村氏は滅びましたが、この時の備中松山城は臥牛山のあちらこちらに二十一の砦を築き、山全体が難攻不落の城塞となっていました。三村氏が滅亡した後の備中松山城には、毛利氏、小堀氏、池田氏などに続き、寛永十九年(一六四二)には水谷勝隆が五万石を与えられて成羽から入封しました。

その子勝宗の代には、幕府の許しを得て備中松山城の大修復を行いました。そして安藤氏、石川氏などが城を治め、最後の城主として板倉氏が入封。板倉氏は延享元年(一七四四)に勝澄の入封以来、明治に至るまで七代、百二十五年続きましたが、特に七代目勝静は江戸幕府の老中首座として将軍徳川慶喜を助けて国の政治に携わりました。 (高梁市市勢要覧) 

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備中松山城の城主は、普段は山のふもとに設けられた御根小屋で暮らし、家臣たちもここへ出仕していました。当時、「御城」と言えば御根小屋のことで、備中松山城は「御山城」と呼ばれていました。現在、御根小屋跡には県立高梁高等学校があり、県の史跡に指定されています。明治の廃城令以後、荒れ放題だった備中松山城には、かろうじて天守と二重櫓が残っているだけでした。昭和十四、十五年に天守の解体修理を行い、さらに平成六年からは本丸跡の本格的な復元工事に取り組み、五の平櫓、六の平櫓、土塀、南御門などが復元され、現在の城がよみがえったのです。

何層にも重なりあう石垣、天守や土塀の白と黒のコントラスト。備中松山城は、そんな美しさのなかにも、天守内の囲炉裏や登頂を防ぐための石落としなど、戦う要塞としての工夫や特徴が随所に垣間見られます。ここには幾多の戦乱の歴史が秘められているのです。 (高梁市市勢要覧) 
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The Impregnable Castle
Bicchu Matsuyama Castle, standing on the
approximately 430-meter Mt. Gagyu, is
famous as Japan's highest extant mountain
castle. Situated between the Sanyo and Sanin
regions, Takahashi was a strategic center for
both water and land transport and played
an important part in the governing of the
old country of Bicchu. Early in the city's
history, the castle was built atop Mt. Gagyu.
Since the first castle was built in the area
by Akibasaburo Shigenobu in 1240, and
through a series of feudal lords, it stood as
an impenetrable mountain fortress. (高梁市市勢要覧) 


The Contemporary Reemergence of the Heroic Castle
In 1939-40, the castle's donjons were dismantled
and repaired, and in 1994, the remains of the
castle underwent a full-scale restoration. In time,
the five- and six-storied small towers, the earthen
walls and the south gate were all returned to
their former glory and the castle was restored to
its present state. Particularly striking are the
multi-layered stone walls and the contrast
between the whiteness of the donjons and the
blackness of the earthen walls. At every turn
within the beautiful exterior of Bicchu
Matsuyama Castle, one finds evidence of the
special techniques and characteristics of the
structure as a stronghold in armed conflict,
including the hearths within the donjons and
the fallen stone used to protect the summit. (高梁市市勢要覧) 


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3度目の大規模修理

今回、保存修理が行われた備中松山城天守(国重要文化財)は、1683年の建造で全国にわずか 12 しかない現存する天守です。
昭和 15 年(1940)に解体修理、同 35 年(1960)には部分解体修理が行われ、大規模な修理は今回が3度目です。山の上という厳しい立地条件に加えて、先の解体修理から約 60 年、部分修理から 40 年経過しており、かなり傷みが進行していました。

修理されたところ

天守の入口部分にあたる渡り廊下の下にある石垣がはらみ出し、建物自体が沈下し、天守本体にも影響を及ぼしていたため、建物を解体。さらに、その下の石垣部分も取り崩して、再度、旧来に倣って積上げ、建物も組み直しました。一方、天守本体も部分的に解体般公開します。して、やや傾いていた建物の建て起しを行いました。柱の根元も部分的に蟻の被害があったため、根継ぎを行っています。

また、外壁も部分的にはがれ落ちていたため、今回、全面に渡ってしっくいの塗り直しを行いました。この修理工事は、平成 13 年3月に着手し、総事業は2億1500万円。国庫補助を得て市教育委員会が実施しました。2月1日.3月末まで無料開放修理を終えた天守は、2月1日から一般公開し、3月 31 日までは、同修理工事の完成を記念して本丸内への入城を無料とします。修理時の調査で分かったこと (広報高梁) 
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◆ 天守は統治の象徴

修理時の調査では、天守の南と北側部分に創建時の部材が残されていることが分かりました。その部分をさらに詳細に調査したところ、外壁と内壁とが一体となった構造ではなく、壁内部が空洞であったことが確認されました。

通常、城郭建築では、銃弾等による攻撃が想定されることから、かなり厚く造られます。中には、砂が充てんされたものや、人頭大の礫などが塗りこめられたものもあります。今回確認された天守の壁構造から、実戦を想定していない建物であることがうかがえます。平素は、ふもとにある御根小屋(現・高梁高校)が城主の住まい、また政庁として使われ、事実上の城として機能しています。

山上の備中松山城は、統治の象徴として、城下からの見栄えを優先したものと考えられます。 

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◆ 戦前の修理で部材の交換

戦前の修理は、柱や壁面、床板など広い範囲に及んでいました。創建時のままの部分では、柱にマツ、土台にクリといった厳選された材が使われていますが、改修部分はアベマキ、クマシデ、カシなど臥牛山の立木が使われ、瓦も元のものより一回り小さい、当時の市販品で全面葺き替えられていました。戦前の文化財修復の限界だったといえます。 (広報高梁) 
松山城は、何年にたてられたんですか (土岩健) 
臥牛山に初めて城を築いたのは、一二四〇(延応二)年、相模(さがみ)(神奈川県)の豪族(ごうぞく)だった秋庭三郎重信(あきばさぶろうしげのぶ)と言われている。秋庭氏は承久の乱で鎌倉幕府方として戦い、その功で有漢郷(うかんごう)の地頭となった人物であり、この時の山城は簡単な砦であったとされている。 (d)

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備中松山城

<営業日時>
9:00開城16:30閉城
4月から9月は17:30閉城
日本一高いところに天守閣が現存する山城。土塀や御門、平櫓も往時の姿に復元されています。

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年末年始0866−22−1487