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板倉勝静の変更点

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!!!板倉勝静

幕末の老中、備中松山藩主。桑名藩主松平定永の第八子(松平楽翁の孫)。

幼名は寧八郎・万之進、号は庫山のち松叟。天保13年(1842)板倉勝職の養嗣子となり、嘉永2年(1849)藩主となる。安政4年(1857)寺社奉行となる。安政の大獄で寛典を主張し大老井伊直弼により奏者番兼寺社奉行を罷免される。

文久2年(1862)老中となり幕政を担当するが、元治元年(1864)罷免され、翌年再び老中に復す。徳川慶喜の信任が厚く、よく将軍を補佐して幕政改革に尽力し、大政奉還に努力する。鳥羽・伏見の戦の後隠居し、松叟と号した。

奥州に流転、箱館に渡航して榎本武揚の軍に加わったが、翌明治2年明治新政府に降る。のち、特旨をもって赦される。
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!出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E5%80%89%E5%8B%9D%E9%9D%99

板倉 勝静(いたくら かつきよ、1823年2月14日(文政6年1月4日) − 1889年(明治22年)4月6日)は、江戸時代末期の大名。備中国備中松山藩の第7代藩主。江戸幕府の老中。父は陸奥国白河藩主・松平定永(勝静は八男)。号は松叟。官位は正四位、伊賀守、周防守。


!経歴
農商出身の陽明学者の山田方谷を抜擢して藩政改革を行って成功を収める。それが評価されて寺社奉行を務めたが、安政の大獄で井伊直弼の強圧すぎる処罰に反対して直弼の怒りを買い、罷免させられた。直弼死後の1862年、老中として復帰し、幕末の混乱する政局の安定化に努めた。生麦事件の賠償問題などから一時、老中職を罷免させられたこともあるが、程なくして老中として再任された。

15代将軍・徳川慶喜から厚い信任を受け、会計総裁に選任される。そして幕政改革に取り組む一方で、大政奉還の実現にも尽力した。その後、戊辰戦争が起きると同じく老中であった小笠原長行と共に奥羽越列藩同盟の参謀となって新政府軍と五稜郭まで戦った。

勝静が一番の信を置いた山田方谷は、黒船来航後の混乱を見て、既に幕府の滅亡が避けられない事を察して、勝静にはまず松山の領民の事を考えて欲しいと諫言する。だが、松平定信の孫(8代将軍徳川吉宗から数えれば、玄孫にあたる)に生まれた勝静にとっては幕府(徳川家)を見捨てる事は出来ない相談であった。勝静が東北地方の幕府軍に参戦しているとの報を得た新政府は、近隣の岡山藩などに対して松山への攻撃が命じた。留守を守っていた方谷は松山の領民を戦いから救うために松山城を明け渡し、勝静を隠居させる決断をしたのである(それと同時に方谷も公的生活からは引退し、新政府の度重なる出仕要請を受けることなく亡くなった)。

晩年は上野東照宮の祀官となった。

1889年、66歳で死去した。幕末の幕臣としては、最後まで忠誠を尽くした忠臣と言えよう。