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川端町の変更点

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「川端町」は、現在の内山下と並んで臥牛山の南西のすそ、市街地の北の端にあって高梁川に沿った町であります。戦国期以後、城下町高梁(松山)が成立していく過程で、城のあった臥牛山の山すそ一帯に本丁(現内山下)とともに、「二の丸」に当たる地域として武士を配置し住まわせた初期の城下町の地区だった場所で、当時から小高下・本丁などとともに「内山下」の一部でありました。

そして、近世初期には、松山城下町の特色である「郭内専士型かくないせんしがた」の代表的な町だったのです。江戸時代は、御根小屋のふもとにあった家中屋敷町でありました。本丁の西側、惣門の前から松山川に沿って通る新見往来沿いに屋敷が並び、東の本丁通り側や往来に面した側など町全体は、土塀で囲まれた上級の武家地だったのです。また、松山川の岸は、石垣の護岸で高瀬舟の荷物を積み下ろすためのがん木や石段がありました。そして御根小屋の米蔵から新見往来に通じる西門通りがあって、この通りを境に町が北側と南側に分かれていました。

西門通りの出口にあった西門は、「不明門あけずのもん」とか「不浄門ふじょうもん」と呼ばれ、納米の時とか町の葬送の時のみ開けられた(昔夢一班)といわれています。「松山城下絵図」(○写市図書館)を見ると西門通りより北側には、馬場があって厩うまや(馬屋)一棟と長屋、そして、土塀が描かれています。元禄(一六八八.一七〇四)の初め頃には、新見往来の五町三八間に一〇〇.三〇〇石取の家中屋敷六軒と給人屋敷六軒が記録され(「水谷氏」=「御家内之記」)、板倉氏の延享元年(一七四四)頃になると「川端丁」八軒、その内家中屋敷五、材木置場二、米蔵一か所、番所がありました(「松山家中屋敷覚」=高梁市図書館)。

この番所とは、塩見番所のことで八重籬神社の西の川端にあったもので、高瀬舟の舟運上の取り立てをしていたが、のち上流の辻巻番所に併合されています。また、材木置場(木蔵)は、のちになって中間丁に移され、米蔵は、惣門の前にありました。幕末になると、家中屋敷は、七軒(「昔夢一班」)に増加しています。このように時代によって移り変わりがありますが、「川端丁」の西門通りより南には元和三年(一六一七)の池田氏入国以後、家老格、年寄役、これにつぐ藩の重臣などの屋敷地として、城下町の重要な地域でありました。

「川端」という地名は、大変分かりやすい地名の一つでありますが、「端ばた」は、方言で「〇〇バタ」などとよく用いられヘ.リ.とか縁辺、ハ.シ.(端・先端)など場所や位置を説明するに大変便利な地名なのです。

索引【か】 分類[地名の由来]