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西林国橋の変更点

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【にしばやしこっきょう】
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【にしばやしこっきょう】


西林国橋(にしばやしこっきょう)は、明和元年(1764年)現在の高梁市落合町福地で神犠を務める家に生まれました。

国橋は青年期、神道や国学を学んだ後、京都へ出て国学を学びます。このころの京都は上方あたりでは諸芸が盛んな時代であり、能・狂言・歌舞枝・浄瑠璃・落語・曲芸などが円熟期を迎えていました。

国橋は自身の学問をさらに高め、文化元年に帰郷しました。
その後、母の生家であった日名村(現在の成羽町上日名)で神官を務めるとともに、近在の子供たちに国学を教えていました。

その間、かねてから荒神神楽がややもすれば低俗な内容だったことに不満を感じていた国橋は、国学の素養を発揮して『古事記』や『日本書紀』に題材を求めた演劇風の神話劇創作に取り組んだのです。

そうして誕生したのが『大蛇退治』、『岩戸開き』、『国譲り』の三編で構成した「神代神楽」です。

国橋はまず上日名の御前神社に教え子たちの実演で奉納。あわせて周辺の神社へも「神代神楽」の普及に努めました。

彼の死後、その偉業を讃える門人たちの手によって西林国橋の碑が建立されています。また昭和二十八年には、国橋の顕彰碑とするため「備中神代神楽顕彰碑」が当時の公民館内に建立されました。 
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西林国橋(にしばやしこっきょう)は、明和元年(1764年)現在の高梁市落合町福地で神犠を務める家に生まれました。 青年期、京都へ出て国学を学びます。このころの京都は、能・狂言・歌舞枝・浄瑠璃・落語・曲芸などが円熟期を迎えていました。 国橋は自身の学問をさらに高め、文化元年に帰郷しました。 その間、かねてから荒神神楽がややもすれば低俗な内容だったことに不満を感じていた国橋は、国学の素養を発揮して『古事記』や『日本書紀』に題材を求めた演劇風の神話劇創作に取り組んだのです。 そうして誕生したのが『大蛇退治』、『岩戸開き』、『国譲り』の三編で構成した「神代神楽」です。 (other)