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成羽愛宕大花火の変更点

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!!成羽愛宕大花火

成羽愛宕大花火は、今から約300年前の宝永年間(1704〜1710)に、成羽藩二代藩主であった山崎義方が江戸・愛宕権現を領地に勧請し、奉納花火を上げたのが始まりとされ、江戸の両国花火よりも古い伝統を持っています。
 当時の愛宕花火は山崎家が一切を取り仕切っており、藩士の中に花火の種類によって家元があり秘伝を伝え、花火の製造には家中の子弟で10歳前後から25歳頃までの若者が従事していました。
 火薬の調合は大砲方(荻野流火砲術)が当たり、10〜12歳までの少年は製造場の小使役を勤め、その報酬として流星花火2本をもらい、13歳になると流星係として花火の中心である「カラクリ」、いわゆる仕掛け花火の操作に加わることが許されました。民衆は、夏の一夜の喜びを与えてくれる若手家臣を「流星奉行」として称えました。
 明治以降、何度かの中断の時期を経て、昭和25年(1950)、成羽町商工会の主唱により復興。今では、夏の夜を彩る風物詩として定着しました。特に、古い歴史を誇る勇壮華麗な仕掛け花火は中四国地方随一といわれ、多くの人々を魅了しています。



(情報もと:広報高梁平成18年7月号 参考文献:「成羽町史‐民俗編」)

http://ftown.boo.jp/takahashi/map/fukiya/nariwano.jpg

毎年恒例の花火ポスター