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山田方谷の変更点

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山田方谷
!!!山田方谷
【やまだほうこく】

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山田方谷は、農家の生まれながら、4歳の頃から神童としてその頭角を現し、21歳の時、板倉勝職に認められ藩の学校である有終館に入学、31歳の時には有終館の学頭にまで出世した。

嘉永2年(一八四九)板倉勝職の養子、板倉勝清が松山藩の藩主となると、方谷は藩の財政を司る元締役と、収支を監査する吟味役に起用される。

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その当時の備中松山藩の財政状態は現在で言う「破綻寸前」だった。松山藩の財政規模は公称年間5万両、実際のところは2万両前後だった。一方藩のかかえる負債は10万両、支出を出来る限り切り詰めて経常収支を平均させても、負債利息一万二千両分は借り増ししなければ支払えない状況だった。

山田方谷は藩財政の改革にあたり、まず行ったのは倹約令だった、その内容は「年月ヲ期シテ藩士ノ穀禄ヲ減ズ」と言う衝撃的なもので、藩士および家族の衣服、飲食、家政に関する具体的な節約六項目、そして、奉行代官の貰い一切を役席へ提出せよ、又、巡卿の役人へは酒一滴も出してはならぬ、と言う二項目、計九項目だった。そして藩主自ら倹約を実行、方谷も先ず俸禄の一部を辞退した。

ただ減俸は下級藩士に及ぼさなかったり、役席に差し出された貰い物は払い下げて財政に繰り込んだり、役人の一般民衆からの供応を厳禁したりと言う社会的弱者を保護する方谷流は貫かれた。

見事なことは、その返済計画は延滞するどころかむしろ早めに完済されたのである。それは以下で述べる諸対策の総合成果である。

藩財政の中で最も重要である10万両に及ぶ負債の処理にとりかかる。
方谷は債権者全員を大阪に集め、藩の財政状況をすべて公開し、再建計画を発表した。その内容は「全利息の棚上げ、その上で、債権者一人一人について、負債額、借入時の状況、債権者の現状を検討しての返済計画〜十年から五十年に亘る」といったものだった。

当然、債権者の反発は強く、罵声が飛び交ったと言うが大阪最大の金主が、方谷の人物を認め負債延期計画の承諾を発言したために全員承認となった。その後一人一人の返済計画を承認させる上では、時間がかかったが結局は初期の計画どおりに納まったという。

驚くべきは、その返済計画は延滞するどころかむしろ早めに完済されたことだろう。

当時各藩は藩札を発行して財貨流通の便を計ると共に藩財政の融通をつけていた。しかし藩財政の事情悪化に伴い藩札を金貨に兌換すべき基金を流用する藩が出て来て藩札の信用を落とすようになっていた。

松山藩もまたその例に漏れず、天保年間に準備金なしで藩札を乱発した上に贋札が出回り藩札の価値は下落の一途をたどった。

方谷はこの藩札の信頼回復をはかるため、「嘉永三年から五年にかけて不信の五匁藩札を天保期の積立金で買収し、藩にある未使用分と合わせて七一一貫三百匁(一八.八五五両・約一二億円)を方谷以下藩士民衆の見守る中、高梁川の河原で焼却する」という非常手段にでた。

藩札の焼却には朝8時から夕4時までかかったと言う。その後なお330貫の藩札を切り捨てて旧札の殆どを整理した。その後で確固たる兌換準備金の下で新藩札を発行した。

 この英断によって松山藩の信用は恢復し他藩でも流通する程となった。この藩札の流通で後述の産業振興がやり易くなり、その利益が還流して藩財政を潤したのである。


また方谷はそれまでの米だけに価値を置く農本主義体制が、野放しの商業資本に食い荒らされ、それが幕藩体制を崩壊させてゆくことを感じていた。そして積極的に産業を振興して藩民に働く場を与え、藩の総生産を拡大することが藩財政を健全化し藩民を豊かにする唯一の方策と考えた。


まず藩領にある良質な砂鉄を増産して釘・鉄器・農具を生産し、また銅山を開発する、山野には杉・竹・漆・茶・煙草を栽培して商品化し、製紙・製菓等にも松山特産品を創り出し民業を活性化した。

その後これら特産品を高梁川という水路を利用して江戸の大市場に送り込んだ。江戸では藩の直接販売を創立、中間利益で藩財政を潤した。これは江戸の役所に総合商社を創ったようなものであった。

これら産業振興策による利益は、この殖産の利益は開始三年で一万両、四年目五万両と増加してゆき、其の後時局柄増大する藩の経費、軍備費、公共事業費を賄いつつ、八年後には当初の負債十万両を計画前に完済し、その上十万両の余裕が出来ると言う目覚しい成果となる。維新後、一端とりつぶされ、再興されるまでの藩財政を賄ったのもこの収益の恩恵であった。


また方谷は財政再建策以外にも、藩内においてさまざまな施策を行っている。

たとえば、は軽罪の者達は牢屋に入れず、「寄場」と称する厚生の場を儲けて感化指導を行った上で、良民として復帰させる。

家中の借上米を返戻して下級藩士の生活安定をはかると共に、貧村には米金を支給して援助し、また三代以上続いた庄屋で困窮する者を救済し、その子弟の教育を援助する。

領内四十ヶ所に貯倉を設け、災害時に開いて飢餓を防ぐ。

道路の拡幅・水路の浚渫等により交通の便をはかる。

城下、玉島等に「教諭所」を設けて一般の農民市民の子弟の教育を行う。

目安箱を設置して一般の意見を聴く、など。

山田方谷の藩財政改革の最終の目的は「藩士領民の生活を安定する」ことにあったという。

 方谷が対象とする人間は「矛盾に充ちた生の人間」である。それが藩なり国なりの集団の中で行動し、そして、その集団が興亡を繰り返すパターンについて、又その原因について四十年にわたる儒学探求の中で方谷は突きとめていたのではないか。

 そして、矛盾に悩み苦闘しつつ生を終る、弱く、愛しい人間達の為に、自分が到達した信念を適用して、光明を与えることこそ自分の天職と方谷は考えたのではないか。  

 「藩(国)の役割は藩民の安寧福祉を守ること」であると、明確に規定した上で、その達成を阻害する諸問題を明確にし、その解決策を考える。その対策は決して人間の血を流す革命方式ではない、時間をかけた人間改造方式である。そして常に社会の下層の人々を慈しみ、上層部に手厳しい。一般民衆を幸福にして始めて上層に幸福が還流してくるのだという信条で貫かれている。

 備中聖人、生き神様、と慕われた所以であろう。

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山田方谷は、農家の生まれながら、4歳の頃から神童としてその頭角を現し、21歳の時、板倉勝職に認められ藩の学校である有終館に入学、31歳の時には有終館の学頭にまで出世しました。 嘉永2年(1849年)板倉勝職が松山藩の藩主となると、方谷は藩の財政を司る元締役と、収支を監査する吟味役に起用されます。 そのころの藩財政は借金による元利が累積し、利子だけでも年一万両近く、借財は十万両にのぼるという、大借金を抱えていました。 方谷は、就任の年から7カ年計画による財政の健全化政策に着手、厳しい経費の節減と借金返済の繰り延べ、紙、たばこ、素麺など地場産業の振興など次々に手を打ち、なんと8年後には10万両の借金を全額返済したばかりか、10万両以上の余剰財源を抱える黒字藩にしてしまったという恐るべき尊敬に値する人物です。 


百俵の米で有名な小林虎三郎は1828年から1877年にかけて長岡藩で活躍しました。同ころ、長岡藩で名をはせた人物が河井継之介でした。この河合1859年に弟子入りし、生涯師と仰いだのが山田方谷でした。最終的に虎三郎と継之介は対立していったのですが、継之介同様、近くにいた虎三郎も当然方谷の思想に影響を受けていたでしょう。 (管理人) 
山田方谷(やまだ ほうこく) 文化2年(1805)〜明治10年(1877)

幕末から明治期の陽明学者、備中松山藩士。阿賀郡西方村(現岡山県高梁市中井町西方)に農商の家に生まれる。

5歳で備中新見藩士の丸川松蔭(まるかわ しょういん)の門下に学び、神童と呼ばれる。

板倉勝静(いたくら かつきよ)が備中松山藩主になると、抜擢され藩の要職を歴任。藩政改革を断行し、巨額の負債を償却するほか更に余財を生み財政危機を脱した。

改革は、諸藩にも知れ、越後の長岡藩(現新潟県長岡市)の河井継之助(かわい つぐのすけ)、長州藩の久坂玄端(くさか げんずい)はじめ方谷に学ぶ者は全国に及び、その数は明治10年に没するまでに千人を超すと言われる。 (R)