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高倉山の変更点

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高倉山


高倉山「高倉山」は、現在伯備線のトンネルのある山で、高梁市街地の南の端にあり、海抜三八三メートル、頂上の東寄りのところに小さな平坦面があるだけで北や西側は傾斜が急で荒荒しく、高梁川に落ち込んでいます。

高梁川は北の臥牛山ののすそ付近から洪水のたびに河道を変えて砂礫や泥土を堆積し、河岸段丘をつくり、水は南の「高倉山」にぶつかって轟々がらがら橋付近(水準点=五九・九メートル)から曲流して稲荷山(近似)と「高倉山」の狭間を流れ、「高倉山」のすそを洗うようにして成羽川と合流しています。現在の高梁の町は氾濫原はんらんげん(砂礫段丘)上に発達していますが、それも町の南にそそり立つ「高倉山」があったからこそだといえるのです。

「備中誌」(明治三六年)には「高倉山」を次のように紹介しています。『原村(松山村)東西多村に跨またがるがらがら橋の上の山也。俗に下山しもやまという草山にて立木なし。葛くずを多く産す。絶頂に登りて眺望すれば松山の城市じょうし眼下に見へ、北の方遥はるかに伯州はくしゅう大山等見ゆるなり』と、また「岡山県名勝誌」(大正四年)にも『上房郡松山村に在り。一に下山と云う、眼下に高梁市街を見、遥に伯州の山を望み山上眺嘱ちょうしょく(遠くまで見わたす)頗すこぶる佳かなり』と紹介しています。

古代から名勝として知られていたようで、天慶九年(九四六)の大嘗会だいじょうえにおける備中国主基すき方の慶賀の歌として「備中国高倉山」と題し『雪の上に萬代ばんだい(万世)とのみ聞ゆるは高倉山の声にぞ有ける』(よみ人しらず)とか、後の治暦四年(一〇六八)の大嘗会和歌集主基方備中国として「高倉山白雪多積」と題して藤原経衝つねひらの詠んだ歌など数多く残っています(「備中誌」、「備中集成志」、「岡山県名勝誌」、「上房郡誌」)。

近世になると有終館学頭で儒学者だった奥田楽山が「高倉山眺望」と題し次のような漢詩を詠んでいます。『夕陽斜照市城明阡陌せんぱく(東西南北に走るあぜ道)縦横砥様平、這裏蠢々しゃりしゅんしゅん(虫のうごめくさま)如蟻ぎ動、細看寸馬豆人さんかんすんばとうじん(遠方の人馬が小さく見える)行』(「備中誌」)と「高倉山」から見る景色の美しさを讃えています。また城下町から見る「高倉山暮雪」は高梁八景の一つとして名勝となっていました(「上房郡誌」)。現在の「高倉山」は雑木や雑草が茂り、昔の人々が表現していたような、風光明媚めいびさがなくなっていますが、先人達が味わい楽しんで大切にして眺めた山だったのです。

「高倉山」の「高倉」という地名は各地にあります。例えば同じ意味の「高蔵」「高座」「高鞍」などでいずれも当て字なのですが「くら」の本来の意味は「嵒いわお」・「巖がん」・「岩」・「刳えぐる」などの意味を表わし、いずれも「くら」と読んで谷.とかがけ..を意味します。「高倉」の地名は「高くて険しいがけ」という意味からついた自然地名の一つなのです。

索引【た】分類[地名の由来]登録日-2004/05/1719:52