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弓之町の変更点

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弓之町
【ゆみのちょう】
{{category 地名の由来}}


五十一 弓之町 「弓之町」は、南は南町と鉄砲町を結ぶえび す小路から北は牢屋小路(現・花水木通り)まで、 東の南町と西の鉄砲町に挟まれた南北に長い町 で、城下町時代の竪町型 たて まち がたの町割りを残す町筋で あります。江戸時代には北の中間丁や西の鉄砲 町と同じように中間などの軽輩の武士を住まわ せた武家地だった町で、正保年中(一六四四.一 六四八)に描かれた「備中国松山城絵図」には、 西の鉄砲町とともに「足軽丁」と書かれていま した。備前往来も下町の南から牢屋小路を西に 折れ、鉄砲丁を南へ抜けていたことが分かるの です。 その後、池田氏の取り立てた鉄砲丁の東に水 谷氏が城下の整備を行い、二代勝宗が寛文年間 (一六六一.一六七三)に、中間など軽輩者の居 住地として「新丁」(現・弓之町)を取り立てた といわれていますが、水谷氏の初めの頃の正保 年中には、すでに「新丁」が完成していたので あります。


 また、寛文一〇年に南町が取り立てられると 備前往来も南町を通るように変更されました。 そして、「新丁」と南町は、二本の小路で結び 「新丁」と鉄砲丁を三本の小路でつないで、いず れも見通しが利かないように計画されていまし た。元禄七年(一六九四)頃の「新丁」は、「長さ 五丁四拾四間、家数八七軒」(「水谷史」=「御 家内の記」)と書かれていて、この頃が最も家数も多かった頃で、石川時代(一七一一.一七四 四)の「松山城下絵図」(○ 写=市図書館)には、 「新長丁」と書かれ「新長町長屋」や「御先 せん 手て 長屋」と、家数五九軒、明家三軒が記され、水 谷氏の頃と比べるとかなり武士の人数が減少し ているのが分かります。 その後、板倉氏の延享元年(一七四四)になる と家中屋敷四八、桁行二間の長屋六(「高梁市 史」)があったようで、町名も再び「新丁」と なっています。 幕末の嘉永.安政初年(一八四八.一八五四) には、町の家数もかなり減って二九軒になり、 一棟長屋が五で三四.五人の侍が住んでいまし た(「昔夢一般」)。 「新丁」は、江戸時代には洪水のたびに水害 に遭った町で、明暦元年(一六五五)、享保六年 (一七二一)、天保六・七年(一八三五.一八三 六)などは、特に被害も大きく記録に残ってい ます。 「弓之町」という地名は、城下町らしい地名 なのですが、明治初年に「新丁」を改めて付け られた町名で、以前この地に徒歩で弓を射る雑兵(弓足軽) が 住んでいたこ ともあって、 鉄砲町に対し て「弓之町」 の地名とした のであります。 今では、町通 りや小路に当 時の面影を残 すのみになっ ているのです。 (市の情報(広報たかはし)) 
また、寛文一〇年に南町が取り立てられると 備前往来も南町を通るように変更されました。 そして、「新丁」と南町は、二本の小路で結び 「新丁」と鉄砲丁を三本の小路でつないで、いず れも見通しが利かないように計画されていまし た。元禄七年(一六九四)頃の「新丁」は、「長さ 五丁四拾四間、家数八七軒」(「水谷史」=「御 家内の記」)と書かれていて、この頃が最も家数も多かった頃で、石川時代(一七一一.一七四 四)の「松山城下絵図」(○ 写=市図書館)には、 「新長丁」と書かれ「新長町長屋」や「御先 せん 手て 長屋」と、家数五九軒、明家三軒が記され、水 谷氏の頃と比べるとかなり武士の人数が減少し ているのが分かります。 その後、板倉氏の延享元年(一七四四)になる と家中屋敷四八、桁行二間の長屋六(「高梁市 史」)があったようで、町名も再び「新丁」と なっています。 幕末の嘉永.安政初年(一八四八.一八五四) には、町の家数もかなり減って二九軒になり、 一棟長屋が五で三四.五人の侍が住んでいまし た(「昔夢一般」)。 「新丁」は、江戸時代には洪水のたびに水害 に遭った町で、明暦元年(一六五五)、享保六年 (一七二一)、天保六・七年(一八三五.一八三 六)などは、特に被害も大きく記録に残ってい ます。 「弓之町」という地名は、城下町らしい地名 なのですが、明治初年に「新丁」を改めて付け られた町名で、以前この地に徒歩で弓を射る雑兵(弓足軽) が 住んでいたこ ともあって、 鉄砲町に対し て「弓之町」 の地名とした のであります。 今では、町通 りや小路に当 時の面影を残 すのみになっ ているのです。 (市の情報(広報たかはし))