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羽山の変更点

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羽山

成羽町に「羽山」という地名があります。東は宇治町と落合町福地、南は成羽町成羽の枝地区、西北には成羽町羽根があります。中央には島木川が、隆起準平原といわれる吉備高原の小起伏面を侵食して流れ、川の谷壁は垂直に切り立つ絶壁で石灰岩の渓谷となり、羽山峡、天竜峡などの峡谷は県立自然公園に指定されています。「羽山」の集落は、この渓谷の上方海抜三五〇.四五〇mの急峻な斜面に点在し、平地に乏しい地域となっています。

また、古くから吹屋往来が成羽から枝を通り「羽山」の尾根伝いに宇治の後谷を経て吹屋に至る近世陸路輸送の主要街道としての役割を果たしていました。この道は「トト道」といわれた道で、瀬戸内海の魚貝類などを吹屋へ運ぶ往来でもありました。羽山の「空」へ登ると山砂利層といわれる砂礫層(粗粒礫層)が露出していて、風化した赤色層の中に石灰岩などの巨礫が多く見られ、地形の複雑さを示しています。

戦国時代から江戸時代初め頃に「羽山」は羽根村の枝村のようになっていたらしく、「成羽八幡神社旧記」(「成羽町史」)の記述の中に『羽根村の内羽山村に八幡神社の幡を持ち帰り「幡之八幡」と称した。そして、はた祭礼の日には幡竹二本を持って行き供えた』などと書かれています。「羽山村」は毛利の支配から慶長五年(一六〇〇)幕府領、元和三年(一六一七)成羽藩領寛永一九年(一六四二)再び幕府領となり、万治元年(一まんじ六五八)旗本山崎領(のち成羽藩領)となって幕末を迎えています。

慶長三年羽山村名寄帳(村の土地台帳)なよせちょう(「成羽町史」)によると、高五二石余と書かれ、江戸前期の正保郷帳(正保二・三年頃)にも五二石余とあっしょうほうて、江戸後期の嘉永頃(一八四八.五三)の「備中誌」には「羽山村、高一六六石余、家数三一軒、人数一六七人、村内惣廻り二里一二町三一間、神社に三体妙見宮一、薬師堂一、枝郷に所原あり、寛文年間(一六六一.七三)修造の新池がある」などと紹介されています。

現在、天御中主の神、高御産巣日の神、神産巣日の神の「造化三神」を祀る天津神社があり、妙見信仰と習合して、古くは三体妙見宮ともいわれました。ほかには、山の神の大山祗の命を山中で祀った山神社なみことまつどがあります。

「羽山」という地名は、各地にありますが、葉山、羽山、麓山、端山などの漢字が充てられることが多いのですが、「端山」から変化した地名で、成羽の里に近い端の山を意味する地名なのです。すなわち奥山に対し人里近くの浅い山を意味するのです。今でも自然神信仰の面影が残っていて、里に近い山(端山)を支配する神が、春は山から里に出て田の神となり、秋の収穫がすむと山に帰って山の神となる。その山の神の支配する山が「羽山」(端山)で、天津神社に残る妙見信仰や山神社(山の神)の信仰は、今でも山の神の信仰の面影を残しているのです。