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宇治の変更点

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宇治 

{{category 地名の由来}}


「宇治」は、現在の高梁市宇治町の地域で、東の高倉町や南や西の松原町と成羽町、北の成羽町吹屋、新見市法曽などに囲まれていて高梁市の中西部に位置しています。中央部は、成羽川の支流島木川がつくった段丘状の盆地を形成し、その周辺部は、吉備高原の山々を刻む河戸川こうどがわが、遠原を通って東の高梁川へ注ぎ、西からは、塩田川が島木川へと流れ合流しています。集落は、この枝状に広がる谷筋や、中央の盆地周辺に集中していて「里」(郷)らしい風景をもつ地域であります。

「宇治」は、大変歴史が古いところで、平安時代の和名抄に出ている「下道郡穴田郷」は、現在の宇治町一帯がその中心地域に当たるのではないかと推定されています。後の平安時代から鎌倉時代にかけて川上郡が成立すると「川上郡穴田郷」となりました。

中世になると、承久の乱(承久三年=一二二一)の戦功によって幕府から穴田郷とその近郷を恩賞として賜った関東武士の赤木太郎忠長が信州から新補地頭しんぽじとうとしてやってきて島木川西岸にある標高四八〇mの南側に絶壁をもった独立丘に滝谷城を築き、当時の中野村本郷の土居屋敷に居住したといわれています(「赤木家先祖覚書」=赤木家文書)。その後、赤木氏は、この地を拠点に勢力を広げ、大氏おおうじ八幡宮(中野)や池原八幡宮(宇治)を建立したといわれています。

また、この頃になると吉備津神社へ二貫五〇〇文とか、雑紙一束を納めたなどと穴田郷の名が記録されています(「吉備津神社文書」)。戦国時代になると、滝谷城主の赤木忠国の婿で宇治右衛門尉が、しらげが城を拠点としていたが尼子・大内の攻防戦で籠城を続け、苦肉の策として白米を谷川に流し食糧の備蓄の豊かさを敵に知らしめたという伝説も残っています。

城跡のふもとには、「太郎入道道性」「応安第四(一三七一)五月廿四日死去」の陰刻銘がある立派な五輪塔などがあって城主の墓塔だといわれています。また、これより、吹屋往来を北へ行くと三村方の武将で滝谷城主の赤木氏に攻められ落城した近藤掃部介かもんのすけが城主だった笹尾城跡があります。

安土桃山時代になると赤木忠房の嫡男忠道が築城したといわれる丸山城跡があり、忠道は高松城水攻めの時、救援にかけつけ、毛利氏より感状と領地をもらったという話も伝えられています。

親の忠房は、元和七年(一六二一)丸山村より塩田村へ移り住み庄屋を世襲したといわれています。繁栄していた赤木氏は、川上郡内に一四四四石余の所領を給されていましたが、江戸時代になって毛利氏とともに山口へ移った者と土着して帰農した者とがあり、滝谷城も廃城となりました。このように「宇治」には、至るところに赤木氏の歴史が残っているのです。

近世の「宇治村」は、毛利氏の支配から慶長五年(一六〇〇)幕府領、元和三年(一六一七)松山藩領、そして元禄六年(一六九三)再び幕府領となり、元禄八年には松山藩領となっています。江戸初期の石高は三二九石余(「正保郷帳」)、江戸の終り頃には、六九八石余(「天保郷帳」)と記録され、戸数六七、人数三一七人(「備中誌」)と書かれています。

明治二二年(一八八九)以後になると、飯部村遠原と宇治村そして、丸山村と塩田村が合併してできた穴田村、中野村本郷などが一緒になって川上郡宇治村が成立しました。役場を宇治に置いて、戸数七八八、人口一九五五人となり、後の大正五年には、人口も増えて二二四〇人となっています。

「宇治」には、古い歴史を語る文化財がたくさんあり、中世に穴田郷四か村の大氏神で赤木氏や水谷氏、近藤氏などの記録も残る遠原の「御前六社大明神」、そして石田の五輪塔、本郷の蓮華寺には赤木忠長の墓と伝えられる五輪塔、また、赤木氏と関わりのある宮陰地の御崎神社、塩田赤木家にあった国宝の赤韋威鎧兜など多くの文化遺産がある「宇治」なのであります。「宇治」という地名は、いろいろな意味があって難しい地名の一つであります。

それは、
(1)「和名抄」に出ている京都の「宇治郷」から取ったもの、
(2)中世のしらげが城主の宇治氏の名前からついた、
(3)「内」から転化し濁音化したものでA 「猪ノ氏」「赤木氏」などの表記と同じ意味の地名、B 山や川に囲まれた土地を表わす、
(4)「兎道うじ」「于遅うじ」の意味で、鹿や猪の通り道とか茨の多い土地を表わす。などが考えられますが、中でも(3)のA とB が最も意味が分かって「宇治」に当てはまりそうですが、どうでしょうか。

索引【う】 分類[地名の由来]