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「高梁市」の地名の由来の変更点

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「高梁市」の地名の由来
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「高梁」は旧藩時代まで「松山」と呼ばれていました。それ以前は「高橋」と呼ばれる時代があり、地名のいわれや使い始めの時期は不明ですが、鎌倉時代末期までこの地名が使われていました。「松山」と呼ばれるようになったのは、南北朝争乱の元弘・正慶の頃(1331〜1334)で、備中国守護職・高橋九郎左衛門の子・又四郎が、城主の姓と地名が同じなのは望ましくないということから「松山」に改めたというのが通説です。

「松山」と名付けられたのは、居城の臥牛山に多くの松が生い茂っていたためだとみられています。以後、城下は明治維新に至るまでの約540年の間「松山」と呼ばれました。明治2年(1869)、太政官布告で「王政維新萬機御改革に際し、従来松山の称号差支え候に付き改称取り調べ申し出ずべき」と、改称が求められました。これは伊予や武州にも「松山」の地名があることから重複をきらったためと考えられます。このため松山藩は「高梁藩」と「高倉藩」の2案を具申したところ「高梁藩」が採用されました。

この案の「高倉」は現在の市街地の南端にある高倉山(下山)からとり、「高梁」は当時の松山川の別号高橋川からとって、「橋」を雅字である「梁」に改めたもので、「梁」の字は柱と柱を固く結び屋根を支える梁(はり)を意味し、高梁は天と地を結ぶ高い橋を表現しています。以来、明治4年の廃藩置県により高梁藩は廃止されましたが、「高梁」はそのまま地名として伝えられ、昭和4年(1929)に高梁町は松山村と合併、さらに同29〜30年(1954〜1955)には周辺9か村と合併し現在の高梁市となりました。

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